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木造天川弁才天曼荼羅

天川曼荼羅は、異形の弁才天である天川弁才天を中心に、周辺に眷属を配した曼荼羅本尊である。弁才天が三頭三面十臂の蛇頭人身の姿を示すことが大き
な特徴である。
弁才天は、奈良時代に鎮護国家の修法の根本となる経典であった『金光明最勝王経』の「大弁才天女品」の中に登場する。東大寺の法華堂内の塑造弁才天立像はよく知られており、奈良時代には既に信仰されていたことが明らかである。その起源はインドの女神であり、もともと福徳の財宝神、護法の武神、芸術の守護神といった多様な側面を持っていた。胎蔵界曼荼羅の外金剛院にも描かれており、密教の中でも信仰を集めた女神の一尊であるが、その信仰が大きく広まったのは、鎌倉時代以降、神仏習合の影響下で、水神、農耕神、財宝神の役割を負った宇賀神と習合して以降である。宇賀神は蛇神や龍神と関連するとともに、『古事記』などの神話に登場する倉稲魂神とも関連するとされ、その姿は人頭の蛇であらわされる。
正圓寺に伝来する天川弁才天曼荼羅は、厨子入りの彫像である。釈迦堂の内陣の、向かって左側に安置される。画像で描かれた曼荼羅と同様の図様を三次元で表現したもので、全国的にも類例が知られていない貴重な実作例である。
銘記がなく、造立の背景は不明である。九曜星像のように銘記はなく、あくまで伝承の範囲だが、生玉宮寺の旧蔵品であるともされる。安政年間(一八五四~六〇)の『摂津名所図会大成』によれば、生玉宮寺内には「弁財天堂」があり、そこには海中出現の霊像がまつられていた。
もし本像が、伝承のように、生玉宮寺の旧蔵とすれば、この「弁財天堂」に関連する像にあたる可能性も考えられる。本像が、天川曼荼羅の画像に見られる、農耕神や性愛神の要素を抑え、宝珠を多用した財宝神の要素を強調していることは、福神として信仰されていたという『摂津名所図会大成』の記述と符号はしている。
中尊の弁天像は、長い蛇頭を持つ長身の像であり、十臂の手の処理も複雑だが、混乱はなく、全体に体躯の均衡はよく保たれている。画像で描かれた姿を堅実に彫像化している。蛇頭の表情には生気があり、衣の細部も丁寧にあらわされている。眷属像も小像であるが、堅実な表現である。後補の痕跡は特に見られず、彩色は造像当初の様子をよく残している。あまり開閉されない、秘仏のような状態で保管されていた可能性も考えられる。
製作年代は、各尊の像容から見て、中世にはさかのぼらず、江戸時代と考えられる。

大阪市指定文化財
(大阪密教美術保存会「正圓寺の仏像について」より抜粋)